山口眞司の舞台

山口眞司 過去の舞台  

過去の舞台・ 2017年 

後ろの正面だあれ    リーフレット  2017.11.6

劇場・料金

下北沢  小劇場B1

作・演出

作:別役実  演出:山下悟

出演者

山口眞司 大窪晶 山崎美貴 谷川清美

舞台の感想

初演は34年前(1983年)。1991年のバブルの崩壊、ソ連の崩壊という大きな社会変化の起きる前のことになる。
大筋は、姉妹がほぼ初対面の青年に、結婚相手として姉か妹かどちらかを選ぶように二者択一を迫る。この強引さに翻弄される青年は・・・というもの。

ただ姉妹の本当の目的は、老人に替る話し相手を見つけることにあったはず。それは束の間のことよりも、なるべくなら賞味期限が長いにこしたことはない。
ところが、老人の一言がスイッチになって、姉妹は性急に二者択一の結婚を青年に迫る。
青年は「結婚だけはダメ」で、その他のことなら全て受け入れていた。結婚のことを持ち出さなければ、少なくとも青年は姉妹の話の聞き役にはなってくれたはずなのに。

ここで二者択一を迫られた青年の取りうる選択を考えてみよう。基本は次の5通り
  1.姉と結婚すると言う
  2.妹と結婚すると言う
  3.姉とも妹とも結婚しないと言う
  4.姉と結婚すると言い、一方で妹とも結婚すると言う
  5.回答しない(別の話を続けてスキを見つけて逃げるなど)

これが現実のことであれば、様々な条件が加わって選択はもっと複雑になる。
例として、下表のように「性的関係」を1つだけ条件に加えてみよう。これだけで上記の5通りから4倍の20通りに選択肢は増える。

 基本条件  追加条件(性的関係)
1.姉と結婚すると言う 1−A 姉と性的関係を持つが、妹とは持たない
1−B 姉とは性的関係を持たないが、妹とは持つ
1−C 姉とも妹とも性的関係を持つ
1−D 姉とも妹とも性的関係を持たない
2.妹と結婚すると言う 2−A 姉と性的関係を持つが、妹とは持たない
2−B 姉とは性的関係を持たないが、妹とは持つ
2−C 姉とも妹とも性的関係を持つ
2−D 姉とも妹とも性的関係を持たない
3.姉とも妹とも結婚しないと言う 3−A 姉と性的関係を持つが、妹とは持たない
3−B 姉とは性的関係を持たないが、妹とは持つ
3−C 姉とも妹とも性的関係を持つ
3−D 姉とも妹とも性的関係を持たない
4.姉と結婚すると言い、一方で妹とも結婚すると言う 4−A 姉と性的関係を持つが、妹とは持たない
4−B 姉とは性的関係を持たないが、妹とは持つ
4−C 姉とも妹とも性的関係を持つ
4−D 姉とも妹とも性的関係を持たない
5.回答しない
(別の話を続けてスキを見つけて逃げるなど)
5−A 姉と性的関係を持つが、妹とは持たない
5−B 姉とは性的関係を持たないが、妹とは持つ
5−C 姉とも妹とも性的関係を持つ
5−D 姉とも妹とも性的関係を持たない

この20通りのなかには、展開していくと面白い物語になりそうなケースがいくつかありそうだ(注1)。
現実社会では、家族と同居するのか別居するのか、ライバルがいるかどうか、持参金や収入はどれくらいか等の多数の条件が加わり、人々はより複雑な条件下で選択を行っている。


ところが、作者の関心は、このようなケースの多様化の方向にはない。
作者は、表の3−D「姉とも妹とも結婚しないと言う」+「 姉とも妹とも性的関係を持たない」のパターンに固執する。
姉妹は他の条件や情報を全く提示しないまま、あくまで二者択一を青年に迫る。
   姉か妹か、右か左か、民主主義か社会主義か
   ・・・これは冷戦時代の思考

この観点でみれば、姉か妹か、右か左かを選ぼうとしない青年はノンポリ(無関心)といえそうだ。とはいっても生真面目さから、これ幸いとゲス男となって姉妹を二人ともども手玉に取ったりする4−Cのパターンのようなことなどはできない。あるときは姉のもの、またあるときは妹のものとなる「枕」のような存在にはなれないタイプなのだ(注2)。

さて、第二幕で終端を見つけようとチューブを引き続ける青年をみて、老人は「何か悪いことをしているのかもしれない」とつぶやく。
初演時の時代背景である冷戦がここでも暗示されている。当時は引っ張っても引っ張っても終端が表れないチューブのように冷戦は長く続いていた。そしてチューブの終端(冷戦の終わり)は第三次世界大戦や核戦争だとよく耳にしたものだ。
しかし、現実には初演の8年ほど後に、私たちは果てしなく続くと思われた冷戦の崩壊(チューブの終端)をみた。このとき私たちは、ソ連・東欧の社会主義国の実態をほとんど知らない状況のもとで、これまで民主主義か社会主義かの二者択一を迫られていたことを知ったのだ。

その後の世界で多く目にしたのは二者択一ではなく、多様化や多様な価値観の共存・共生をめぐる試みだったと思う。
ところが、再び二者択一を迫る力は勢いを取り戻してきた。  
   イスラムか非イスラムか、統合か離脱か、対話か圧力か、護憲か改憲か

これらのチューブの終端では、何が起こるのか。姉妹の間を行き交う「枕」のように右往左往しながら何らかの選択をし、再び私たちはそれらの終端を見ることになるのだろうか。
時代背景は変わっても新たに突きつけられる二者択一に、どのような選択・行動をすべきなのか。このことを再演の意義と考えたい。

   注
(注1)最近では4−Cのパターンでハワイで重婚式をあげた国会議員がいた。条件が若干異なるが類似パターンとして、「男女の関係はなかった」と強調する国会議員も興味深い。


(注2)後から気づいたので追加します。
劇の冒頭で長々と繰り返される姉妹の「枕」をめぐるやり取りが、歴史的な出来事を暗示しているように感じていた。それで思い当たったのだが、これは朝鮮戦争の始まりを巡る当時の論争に似ている。「先に攻めたのは北か南か」という論争だ。
・・・北が南の領土まで攻め込んでいるのだから北が先だ。いや社会主義国が戦争を仕掛けるわけがないから南が先。米CIAの工作員の謀略に北が反応したのだ、いやいや米CIAの仕業に見せかけた北の工作員の謀略が発端だ・・・・など。日本では、現場を知らない学者やジャーナリストによる水掛論争が長く続いていたようだ。

(追記)
この脚本家の特徴である長々と繰り返される無機質的なやり取りを、単に「言葉の不条理?」を表したもので意味はない、意味がなくてもいいではないか、という意見がある。
本当に意味がないのだろうか。この劇と「メリーさんの羊」からは、この脚本家は時代背景や風潮に敏感に反応して作品を創っているように感じる。この脚本家は「不条理劇」というレッテルを貼られて不当な評価、というよりも見当ちがいの評価をされているのではないか、と最近思うようになった。