●タイトルが不適切だと思う理由
アフリカの太陽の意味は、劇中のセリフで次のような内容の説明がされている。
「今みている夕日は日本のものだが、アフリカでは太陽は真上にあってカンカンと大地を照らしている。いつかアフリカで太陽を見たい・・・」
このように台詞で説明しなくてはならないタイトルの付け方もどうかと思うが、それよりも、この表現は優劣の2元論の見方になっている。つまり
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(劣) |
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(優) |
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「日本の夕日」 |
⇔ |
「アフリカの太陽」 |
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= |
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= |
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「グループホームでの生活」 |
⇔ |
「家族との同居」 |
という作者の意識を反映している。
アルコール依存症の人からみれば、「家族との同居」を目指すのはもっともだと思う。この劇でも、息子と和解して再び家族と同居するカツさんのエピソードの占める時間が長いことから、結果的に「アフリカの太陽」=「家族との同居」を強調したものになっている。
しかしアルコール依存症の人が家族と再び同居するのは難しい。だからこそ、アルコールに依存し断ち切れなくなるのだと思う。そのため「アフリカの太陽」=「家族との同居」を強調すればするほど、アルコール依存症の人を苦しめることになり、現在の生活「グループホームでの共同生活」=「日本の夕日」を否定的に、劣っているもの、また不自然なものとして捉えることにつながる。
図 「アフリカの太陽」の優劣の2元論
日本の夕日
(劣)
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⇔ |
アフリカの太陽
(優)
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沈んでいく暗いイメージ |
⇔ |
真上に強烈な光がある。
活動的で明るいイメージ |
アルコール依存症 |
⇔ |
普通の人
(非アルコール依存症) |
グループホームでの
共同生活 |
⇔ |
家族との同居 |
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グループホームで
生活を続ける男たち |
⇔ |
再び家族と同居する
カツさん |
新しい家族形態の提案
(グループホーム) |
⇔ |
従来の血縁家族への
復帰を重視 |
↓ |
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↓ |
いろいろな家族形態や
生活形態を認める
柔軟で現実的な価値観 |
⇔ |
マイホーム型家族しか
認めない
単一的で硬直した価値観 |
↓ |
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従来の2元論を打ち破り、
新しい家族形態を支援する、
あるいは力づけるような
タイトルであってほしい |
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非アルコール依存症の者がつくる劇として大事なことは、新しい家族形態としてグループホームなどを認めて、「血縁家族との同居」が全てではないと示すことだと思う。
従来の血縁的マイホーム型の家族形態ではカバーできないからこそ、深刻な問題なのだ。これに対応しうる新しい家族形態の模索は、アルコール依存症の問題に限らず、家庭内暴力や引きこもりなどの問題解決にとっても重要なことである。非アルコール依存症の者にとっても無関心ではいられない、普遍的な問題といえる。
その意味で、この劇のハイライトは「カツさんの息子との和解・同居」ではない。アルコール依存症者の運動のリーダーでもあるミノルが、娘夫婦との接触を断られてアルコールに手を伸ばしたとき、「頭が悪く、アルコールにすぐに手を出してしまう」よっちゃんに諭されて思いとどまる場面にある。ここには血縁家族よりもグループホーム(=新しい家族形態)が、今の彼らにとって不可欠であることが示されているからだ。あるいは、周辺の住民との交流、特に大家で在日のキムさんとの交流に重点が置くことも考えられる。(その場合は、登場人物の入れ替えなど大幅な変更が必要になり、全く違った作品になると思う。)
作者はグループホームに注目したことで、新鮮な視点から家族の問題を捉えた。しかし、なぜか「アフリカの太陽」という従来の血縁的マイホーム型の家族を重視したタイトルを、それによって結果的にグループホームでの共同生活を否定的に、または劣ったものとして捉えてしまうタイトルをつけてしまった。
これでは私たちの固定観念(血縁家族の重視)を打ち破るのは難しいし、劇自体のインパクトも低下させている。
また、このタイトルによって、アルコール依存症者と非アルコール依存症者の間に、作者は明確な一本の線を引いてしまった。「体質的にアルコール依存症者でなくてよかった。アルコール依存症者はかわいそう。」というような劇後の感想は、作者の本来意図するものではないと信じたい。むしろ非アルコール依存症者にも、例えば老後の生活の仕方としてグループホームに期待を抱かせることさえできるはずである。
繰り返すが、アルコール依存症の人からみれば「家族との同居」を目指すのはもっともだ。だからこそアルコール依存症の人を支援し、力づけるためにも、非アルコール依存者がグループホームなどの新しい家族形態を提案し、社会的にも受け入れていくことが重要になる。この点を強調することが、問題の本質を明らかにするために作家として不可欠なバランス感覚だと思う。綿密な取材に基づいて現実を再構成しているだけでは不十分なのだ。
せめて血縁によらない新しい家族形態を暗示させるタイトルであってほしい。なぜならグループホームを必要としている人たちの物語であるのだから。そしてグループホームへの着目は正しいと思うから。
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