●キャラクターの逆転
この劇の初演は、老人役が中村伸郎、青年役が三谷だった。
「中村さんのような生真面目な人が老人役なら、もっとおもしろいのでは」とシバタはいう。知り合いで初演をみた人はおらず、私も見ていないので想像だが、そうかもしれない。
三谷が老人役をやると彼の特異な個性から、青年を煙にまいて喜んでいるひねくれた老人のようにみえてしまう。仙石前官房長官の答弁のようなものだ。
しかしこの劇のポイントは、老人が誠心誠意をもって青年に事件の説明をし理解を得ようとするのだが、なぜか青年は実父の死の真相を探ろうとしないところにある。
老人は正確な時間を要求されるたたき上げの鉄道マンであり、いい加減なことはいえない性格であるはずだ。国会答弁とはまるで正反対のイメージなのである。
初演と現在のキャストとそのキャラクターの違いを図示してみた。
初 演: |
生真面目な老人
中村 |
− |
つかみ所のない青年
三谷 |
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↓ |
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再 演:
(現在) |
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つかみ所のない老人
三谷 |
− |
生真面目な青年
山口 |
初演を中村型、再演を三谷型と名づけてみよう。
つまり現在の舞台は三谷型であり、作者の意図である中村型から逸れているうえに、キャラクターの逆転まで生じている。ついでながら、チラシにある「別役劇のベスト3に入る」と岸田が評価したのは中村型のことだ。
●キャラクターとキャスティング
この状況で「メリーさんの羊」を論評することは正当といえるだろうか? といっても、一概に現在の舞台がダメだと決めつけるわけではない。ただ製作側の義務として、岸田が高く評価した中村型「生真面目な老人−つかみ所のない青年」形での再演があってもいいと思う。
つまり、次のような形である。
初 演: |
老人 中村 |
− |
青年 三谷 |
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↓ |
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再 演: (現在) |
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老人 三谷 |
− |
青年 山口 |
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↓ |
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再々演:
(将来) |
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老人 |
− |
青年 |
●世代間のギャップとキャスティング さらに付け加えたいのは、ラスト近くに登場する女性の世代の問題である。
現在の三谷型では老人の妻のようだ。少なくとも老人と同じ世代である。 ところが、初演の中村型では娘でだったという。つまり青年と同じ世代なのだ。
この劇の隠れた主題は、老人と青年のコミュニケーション・ギャップ、つまり世代間の言葉の壁とみることもできる。青年とのギャップを埋めようとして果せなかった老人は、どんな生活に戻っていくのだろうか。
三谷型では、同世代の妻のもとへ戻っていく。ここでは、世代間のギャップは手付かずで残されたままだ。
しかし中村型では、青年と同じ世代の娘のもとに戻っていく。これで世代間のギャップが解消されるとはいえないが、なぜか少し救われる感じがする。
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再演 (現在) |
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初演 |
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老人
三谷 |
−
癒し |
(妻)
井出 |
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老人
中村 |
−
癒し |
−
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ギャップ |
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ギャップ |
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青年
山口 |
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青年
三谷 |
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(娘)
井出 |
●再々演への課題
作者が意図した形で舞台をみたいと思うのは観客として当然の欲求であり、なにより作者自身がそれを望んでいることだろう。新旧2つの形を併行して見せてもらえるならば、滅多にない試みになる。
三谷が自由に青年役を演じるのを見てみたいが、年齢的にそぐわないだろう。残念だ。 つまり最大の課題は、青年役に三谷に匹敵する個性をもつ若手を見つけることだ。 「メリーさんの羊」の可能性は、まだ多くが埋もれたままなのだ。
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