山口眞司の舞台

「メリーさんの羊」特設ページ コラム2  


「メリーさんの羊」と三鷹事件(その1) 

次のような中村伸郎さんの談話が、第3回公演(1987年7/15-19)の渋谷ジャン・ジャンのパンフレットに載っています。

「メリーさんの羊」は私に与えられた別役さんからの最高の贈り物だと思っている。
 読み返すたびにこの芝居は周到に緻密に、そして美しく書かれているのが判り、役者はナンにもしないでそれを受け止める肚づくりが要求されていると思い知るのである。」

これほどの名優が「読み返すたびに」気づいたこと、気づかされたこととは何だったのか。気になっていました。

一方次元がかなり違うのですが、2019年夏にNHKで放送された三鷹事件の特集をみて、三鷹事件と「メリーさんの羊」に類似点があることに私も気づかされました。

三鷹事件とは、1949年7月15日に東京都の三鷹駅構内で起こった無人列車の暴走による鉄道事故で、死亡者6名、負傷者20名。容疑者は無罪を主張しましたが、死刑囚となって拘置中に死亡しました。この事件には不可解なことが多く、同時期に起きた下山事件、松川事件とともに、国鉄三大ミステリー事件と呼ばれています。
なお事故やその後の裁判などの詳細については、ウィキペディアなどを参照してください。


「メリーさんの羊」と三鷹事件の類似点

「メリーさんの羊」は鉄道事故をめぐる後日談といったものです。三鷹事件と「メリーさんの羊」に出てくる鉄道事故とは内容は全く違うものなのですが、3つの類似点があると思います。

 1.鉄道事業の関係者が故意に脱線事故を起こした?

 2.容疑者は単独犯?

 3.容疑者は冤罪を強く主張したが、認められない

作者の別役実さんは日本の犯罪者についての著書があるなど事件や犯罪には強い関心がありました。三鷹事件が起きたとき別役さんはまだ12歳でしたが、子どものころに近くで鉄道事故(予讃線事件?)があったと語っており、鉄道事故には興味を持っていたと自身が語っています。

また三鷹事件を含めた国鉄三大ミステリー事件は、後に松本清張の「日本の黒い霧」などにも取り上げられるなどマスコミでも注目度の高い事件でした。別役さんは当然詳細まで知ったうえで「メリーさんの羊」を書いたと推測できます。

別役作品は不条理な会話のやりとりなどが注目され、全ての作品がひとくくりに不条理劇と扱われる傾向がありますが、一方で被爆者などの社会問題を題材にした劇もあります。
この「メリーさんの羊」は「冤罪」という社会問題をテーマにしているという視点から、「不条理劇」などの先入観に捉われずに観るべきだと思うのです。


鉄道事業の関係者が故意に脱線事故を起こした

「メリーさんの羊」の老人が疑われた「鉄道事業の関係者が故意に計画的に鉄道事故を起こした」と思われるケースは、ほとんど例がないと個人的に思っていました。子どものころから鉄道員にあこがれて鉄道会社に入社する人が大半ですから、自ら列車や電車を脱線させて多くの死傷者・負傷者を出す事故など起すわけがないと考えていたからです。

ところが調べてみたところ、少なくとも事故発生時は鉄道事業の関係者が計画的に引き起こしたと思われていた鉄道事故が多発していた時期があったのです。

1949年(昭和24年)に起こった国鉄三大ミステリー事件のうち、下山事件を除く三鷹事件、松川事件が当時の国鉄職員などが起こした鉄道事故として裁判となりました。当時はミステリアスな事件として大きな話題になってGHQ陰謀説など様々な憶測が生まれました。

三鷹事件(東京都) 1949.7.15 被告は冤罪を主張したが死刑宣告を受けた
松川事件(福島県) 1949.8.17 20名の被告は冤罪を主張し無罪となった


このほかにも容疑者不詳のため迷宮入りしましたが、手口が松川事件と酷似しているため鉄道会社の関係者の関与が強く疑われた事件として以下の3事件があります。

庭坂事件(福島県) 1948.4.27
予讃線事件(愛媛県松山市) 1949.5. 9
まりも号脱線事件(北海道) 1951.5.17


つまり1948年から1951年の4年間に5事件が鉄道関係者などが起こした鉄道事故が発生したのです。そのうち1949年には3事件が集中的に起こり、そのうえ下山事件も起こっています。
また三鷹事件だけが単独犯とされています。松川事件その他の事件は複数犯の犯行と考えられています。


容疑者は単独犯

三鷹事件は広く冤罪とみなされて、長期間にわたって再審請求運動が続いています。その冤罪を主張する主要な根拠の一つは、単独犯が脱線事故を起こすのは不可能に近いということです。
当時の鉄道事業でも安全対策が施されているため、鉄道事業関係者といえど単独犯で列車を脱線させるのは非常に困難なのです。
しかも同僚からも疑われないように証拠を残さず実行することは、いくつかの偶然が重ならないと不可能で、確率はゼロではないが極めて低いといえるのです。

したがって「明日の夜〇時の列車に誰々が乗っているから頼む」などと急に言われて、ピンポイントでその列車の脱線させるなどは不可能です。当時の三鷹事件についての報道内容を知っていた人ならそう考えるでしょう。


容疑者は冤罪を強く主張したが、認められない

三鷹事件では容疑者の竹内景助さんが裁判途中から「単独犯での犯行」を証言し、その後証言を翻して無実を強く主張しました。
結局裁判では死刑判決を受けるのですが、その後も無罪を主張し再審請求をくり返しましたが、それを果たせぬまま獄中で死亡しています。
その再審請求は遺族(妻と子)によって引き継がれています。

【参考リンク】ヤフーニュース
三鷹事件再審請求棄却と「無実の死刑囚」竹内景助さんの長男が語った70年に及ぶ闘い


「メリーさんの羊」の老人のモデルは?

さらに三鷹事件が「メリーさんの羊」の創作のヒントであると主張する理由として、「メリーさんの羊」の老人の年齢設定があります。

老人は定年退職の後ですから60歳代、鉄道事故の発生時はいきさつから20歳代だったと考えるのが自然でしょう。

一方、三鷹事件の竹内景助さんは三鷹事件発生時にはは27歳で、その後45歳で拘置所で死亡しています。もし生きていれば「メリーさんの羊」初演の1984年には62歳です。
つまり老人の年齢設定は、三鷹事件の竹内氏の年齢に符号しているのです。


 表  老人と竹内氏の年齢

  「メリーさんの羊」
老人
三鷹事件
竹内氏
20歳代 鉄道事故が発生 三鷹事件の発生時は
27歳
60歳代 定年退職後 1984年初演時まで
生きていれば62歳


老人のモデルが竹内景助さんであるとするなら、メリーさんやトム坊やのモデルは誰でしょうか?
個人的な見解にすぎませんが、メリーさんは竹内景助さんの妻がモデルとまではいえないまでもモチーフになったと思っています。

メリーさんは老人が脱線事故を起こしたと信じ、「亡くなるまで」心の中で感謝していたのに対して、竹内景助さんの妻は、夫の無実を信じて「亡くなるまで」冤罪を主張して再審請求運動のために行動していました。

つまり「亡くなるまで信じていた」という1点だけ共通します。しかし、その他の点については正反対です。竹内氏の妻は再審請求運動の中心として積極的に活動しましたが、メリーさんはいっさい行動しません。老人に会って感謝の気持ちを伝えることすらしません。

個人的にはあえて「亡くなるまで信じていた」以外の点を竹内さんの妻とはと正反対に設定して、メリーさんの人物像を創作したような気がします。メリーさんの行動になにか不自然なものを感じるのは、そのせいではないかと思うのです。

また三鷹事件発生時、竹内さんの長男は6歳であり、トム坊やの年齢設定とも合致しています。


 表 メリーさん親子と竹内氏の家族

  「メリーさんの羊」 三鷹事件
メリーさん

老人の犯行を信じ
亡くなるまで感謝する

非行動的
(老人に会おうとしない)
竹内さんの妻

竹内さんの無罪を信じ
亡くなるまで冤罪を主張

行動的
(再審請求運動の中心)
長男 トム坊や

老人の犯行を信じる
母の老人への感謝の
気持ちを引き継ぐ

脱線事故当時は幼かった
竹内さんの長男

竹内さんの無罪を信じる
母の再審請求運動を
引き継ぐ

三鷹事件発生時は6歳
家族関係 老人の家族ではない 竹内氏の家族


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