山口眞司の舞台

山口眞司 過去の舞台  

過去の舞台・ 2019年 

ダウト    リーフレット   2019.10.29

劇場・料金

下北沢 小劇場B1  

作・演出

原作:ジョン・ハトリック・シャンリィ  演出:大間知靖子

主な出演者

眞野あずさ 山口眞司 伊藤安那 村中玲子

その他

2008年に映画化
出演:メリル・ストリープ、フィリップ・シーモア・ホフマン、エイミー・アダムス、ヴィオラ・デイヴィス

 不可解な点が多い劇だと思いました。すぐ感想を書こうとしたのですが、しっくりしない点が多くてなかなか書けませんでした。

 特に疑問に思ったのは、次の3つです。
  1.フリン司祭はなぜ昇進したのか。
  2.なぜ校長はラストシーンで突然泣き崩れるのか。
  3.校長はアフリカ系アメリカ人の少年に対して教育者としての愛情があったのか。言い換えればフリン司祭を左遷させるための道具に使ったように見えます。(注1)

 ある人の「映画のDVDを観てから書いたら」という助言に従って、特に英語字幕に注意しながら見直しました。
 するとひとつの仮説が浮かび、それに沿うとすんなりと解釈できそうです。今回の劇だけを観た人には納得できない ことが多いでしょうが、映画をみるとこんな解釈も可能なのだと考えていただきたいのです。
 その説明の手順としては、まず「1.劇の背景」を整理しました。それから私の想像するところを「2.仮説」として提示しました。「仮説」といっても「たぶん、そうだったんじゃないか劇場」のようなものです。
 長くなりますが、それでも最後まで読んでくださる方がいれば幸いです。


第1部 劇の背景

■なぜ少年はアフリカ系アメリカ人という設定なのか

 劇場で配布されたパンフレットによると、劇作家はインタビューでのなかで「自分が白人の少年(ウィリアム・ロンドン)のモデルである」と語ったそうです。インタビュアーから質問されたわけでもないのに、彼はなぜわざわざ発言したのでしょうか。(注2)

 では、まず劇中でウィリアム・ロンドンに言及された箇所を思い出してみましょう。
 それは、ラスト近くで校長とフリン司祭が対峙した場面です。司祭が「なぜ私を疑うのか、疑う最大の根拠は何か」と問い詰め、校長は答えます。
 「司祭がウィリアム・ロンドン(白人の少年)の手を握ろうとして、少年が振り払うのを目撃したから」

 要するに、これを根拠とする校長の主張は次のもので、かなり不可解なものです。
  1.司祭は少年に対して性的関心がある。
  2.白人の少年に対しては、司祭は自制心が働いて問題は起こらなかったが、
   アフリカ系アメリカ人の少年に対しては、自制心が働かず問題が起こった。

 ここでは2番目の主張に注目します。劇作家は彼自身の体験をもとに白人の少年をモデルにしたのではなく、アフリカ系アメリカ人をモデルに設定したとヒントをだしたのです。なぜでしょうか?
 この種の事件がアメリカ合衆国において仮に発生したとして、その社会的な影響を想像してみてください。加害者は白人ですから、被害者の少年が白人かそうではないかで、大きく違いが生れるでしょう。

〇被害者の少年が白人のケース
 白人のコミュニティ内だけの問題になります。
 学校内にはアフリカ系アメリカ人は少年1人だけですから、アフリカ系アメリカ人のコミュニティにとってはほぼ無関係、無関心な事件になるでしょう。

〇被害者の少年がアフリカ系アメリカ人
 大混乱は必至の状況になります。「白人の教師が、他に白人しかいない学校のなかでアフリカ系アメリカ人の少年に性的いたずらをした」のですから、人種間の大問題です。現在でさえ、このような事件が起きれば暴動などが起こってもおかしくないでしょう。

 そして舞台設定は公民権運動が盛んな時期で、現在よりもはるかに暴動等が起こる可能性が高かったのです。


■学校をめぐる時代背景

 この劇の時期の設定は、ケネディ暗殺事件から約1年後です。ケネディ暗殺から数年間は、アメリカ合衆国の歴史の中でも特別な時期で、約4年半の間に3つの暗殺事件が起きています。
  1963年11/22 ケネディ暗殺
  1965年 2/21 マルコムX暗殺
  1968年 4/ 4 キング牧師暗殺

 つまり公民権運動を中心として人種間の対立が激しかった時期です。この劇で学校内で起こった出来事と合わせて、年表として整理してみました。

年月日 公民権運動などの出来事 学校内の出来事
1954年 ブラウン対教育委員会裁判判決
 公立高校での人種隔離を違憲とする判決
 以降、全米の公立高校で暴力事件が頻発
私立学校は判決の対象外で
混乱はなかった様子。
    (徐々に生徒数が増加する)
1961.1.20 ケネディ大統領就任
 公民権の制定に取り組む
 
1963.8.28 ワシントン大行進。キング牧師が有名な
"I have a dream"の演説を行う
 
9.1    新人の女性教師が赴任
フリン司祭が転任してくる
1122  ケネディ大統領暗殺
12.24  (この間、公民権法の制定が進められるが成立には予断をゆるさない状況になる) クリスマスのイベントが盛り上がらずに終わる
1964.7.2 公民権法が制定  
9.1    女性教師がクラス担任になる
学校初のアフリカ系アメリカ人の生徒として少年が転校してくる
10.14  キング牧師ノーベル平和賞受賞の発表  
1964.11 (ケネディ大統領暗殺から約1年後) 校長がフリン司祭を疑う一連の出来事が起こる
12.10  ノーベル賞授賞式  
12末    女性教師が休暇をとる
1965.1 始   女性教師が休暇から戻る
フリン司祭が昇進
校長が泣き崩れる
2.21  マルコムX暗殺事件  
3.7  血の日曜日事件  

注)女性教師の赴任時期、少年の転入時期は、アメリカの学校の新年度開始月の9月とした。


 次に、主に学校をめぐるこの時期の環境の変化について、私なりに整理してみます。

(1)女性教師の就職について

 1954年に「ブラウン対教育委員会裁判判決」により、公立学校における人種隔離が違憲とさせました。つまり当時は白人学校と黒人学校があったわけです。
 そこで公立学校では判決に基づき、人種統合を進めていくことになるのですが、特に南部においては抵抗が強く、その象徴的事件として「リトルロック高校事件」が起こります。
 白人学校であったリトルロック高校に黒人学生9人が入学しようとしたところ、州知事が州兵を動員してこれを妨害。これに対してアイゼンハワー大統領は陸軍空挺師団を派遣して黒人学生をエスコートさせるという、アメリカ全土を揺るがす事態になりました。

 この舞台となる学校はカトリック教会が運営する私立学校ですから、この判決の効力は及ばずに実質的に白人学校のまま運営されていました。
 しかし徐々にその影響が及んできます。生徒数の増加がするようになったのです。
 前述のようにこの時期は公立高校では人種統合に関わる騒動が頻繁に起きて、落ち着いて勉強ができるような環境ではなかったようです。そのため子どもの教育環境を憂慮した親の意向で、公立学校から授業料は高いけれども私立学校に転校させるケースが増えたのです。

 舞台となる学校はカトリックの私立学校ですから、かつては信心深い両親に育てられた子どもたちばかりで少人数の静かな雰囲気だったのですが、このころは一般家庭からの多くの子どもを受け入れたため、かなり賑やかというか騒々しい雰囲気に変わっていたようです。

 劇の冒頭で、校長が女性教師に「いま学校は人手不足で、経験の少ないあなたがクラス担当を持てたのはそのためだ」と発言していたのは、そうした背景からです。
 日本の学校のように文教予算が削られて教師不足になったのではなく、生徒数の思いがけない増加によって女性教師も急遽採用されて、応急措置的にクラス担任になったのでしょう。


(2)当時のカトリック教会の状況について

 カトリック教会では世界的な傾向として信者の伸び悩みが問題となっていました。その理由としては、あからさまにいえば教義が厳格すぎて時代に合わなくなっている、つまり「固くて、難しくって、なんか古くさい」ということ。特にプロテスタントが優勢なアメリカ合衆国では、カトリック教会の危機意識は強かったようです。

 対策としては「教会やその学校を親しみやすいものに」ということになりますが、しかしそのことは教会内に摩擦を生じさせます。保守派・守旧派と改革派との間のあつれきです。
 クリスマスの歌の選曲の場面では、それが明らかに表現されています。
  保守派:校長
  改革派:司祭、女性教師

 改革派からみると、学校に一般の家庭から多くの子どもたちが入学している機会をチャンスととらえ、教会に親しみをもってもらって信者を獲得するきっかけにしたい。
 保守派は厳格な教義を守りたいので、たとえば静かに教師や牧師などの話を聞けない子は、校長室に送り込んで説教をするという行動になったりするのです。
 フリン司祭や新人の女性教師には、校長のそうしたやり方・教育法に抵抗感を持っているわけです。


(3)アフリカ系アメリカ人の入学にあたって

 1964年7月公民権法が制定され、公立学校だけでなく私立学校にも人種統合の波が押し寄せてきます。カトリック教会としても勢力拡大のためにアフリカ系アメリカ人の生徒を入学させたいところです。反対に1人もアフリカ系アメリカ人の生徒がいなければ、カトリック系の閉鎖性、後進性と指摘される可能性もあるわけで、それも避けたい。
 ところが、高い授業料を払ってまで私立学校に子どもを入学させたいと考えるアフリカ系アメリカ人は当時はごく少数だったのです。そこに入学希望者が現れました。

 ここからは私の想像で、その生徒と家庭のプロフィールを作ってみます。
 生徒は以前のアフリカ系アメリカ人の学校ではトップクラスの成績で、白人の子どもしかいない当校に入学しても落第することはなさそうです。性格も温厚で非行歴もない。
 両親は共稼ぎですが、まじめで安定的な収入があり、授業料の滞納などの心配はなく、教会への献金もわずかだが行っています。当時勢いを増していた急進的な活動家とは無縁で、穏健派のキング牧師などの支持者です。両親の職業は白人と接する機会が多いものでしたが、問題を起こしたことはなく評判もよかった。
 初めて入学させるアフリカ系アメリカ人の生徒としては、理想に近いプロフィールです。

 ところが問題がひとつだけありました。少年が不登校になった原因です。不登校の理由を少年が以前通っていた学校の校長に内々に問い合わせて情報を得ました。このことは教会の上層部のごく一部の人に限られ、校長には知らされてませんでした。
(日本の学校では、転校に際して不登校の理由などは校長などに伝えられると思います。映画をみて気づきましたが、校長は少年の母親との会話で始めて知ったようです。)

 なお、当時の私立学校の生徒数はピークを迎えていて、将来的には生徒数が減少することが予想されていました。公立学校の人種統合の混乱が収まれば、授業料の高い私立学校に入る必要がなくなるからです。
 そうなれば人員削減などの経営上の問題が生じます。早急に白人だけでなく幅広く生徒を集める必要もありました。


(4)司祭と校長の地位について

 分かりやすくと、校長と司祭の地位はどちらが偉いのかということです。
 カトリック教会の組織ということですが、基本的な知識がないのでネットや映画をみて整理しましたので、誤解があるかもしれません。
 
 教区(日本でいえば学校区のような感じ)ごとにカトリック教会が1つあり、いくつかの教区を司教(bishop)が管轄するという形態のようです。
 教区にあるカトリック教会は、建物でいうと聖堂と修士館、修道院があります。この劇では、修道院は女性(修道女)だけです。したがって、修道女は修士館に、また司祭など男性は修道院には入れません。(修士館と修道院の間には広い庭があるようです。)また、学校は名目上は修道院の付属施設で、この劇の学校は日本でいう中学校にあたります。
 教区単位の組織でいうと、最高責任者は主任司祭(pastor)で、この劇では修道院長も兼ねているようです。整理すると次のようになります。(注3)

 教会の組織からみると、主任司祭(pastor)‐司祭(priest)‐修道女(修道士)
 学校の組織からみると、修道院長(主任司祭が兼任)‐校長(修道女)‐教師(修道女)

 つまり教会の組織ではフリン司祭が上で修道女である校長は下の位置づけ、学校の組織では校長のほうが上の地位と、反対になっているのです。それで微妙な空気になるのです。
 フリン司祭は校長室に行くと校長の椅子につい座ってしまう。彼は自分のほうが校長よりも地位が上だから当然と思っている。ところが校長からみると年下の一教員に自分の席を取られたのですから心中は腹立たしい。

 どうもこの時期は女性は司祭以上にはなれなかったようです。つまり教会内に男女差別があり、女性の昇進は教会の組織では修道女まで、学校の組織では校長まで。
 女性である校長は教会の重要な決定を行う会議に出席できないし、将来的にも司祭になれず、教会で説教をすることもできない(もちろん現在は違います)。

 推測ですが、この学校の「校長」という役職は日本の私立学校でいうと事務長に近い地位で、人事権もなく、理事会などへの出席や発言はできなかったのではないか。おそらく少年の入学なども直前まで知らされておらず、そうした修道女(校長を含む)に対する扱いに校長は不満を持っていたと想像します。


■校長の経歴について

 校長は「夫は第2次大戦で戦死した」といっています。つまり戦争未亡人です。教会の主催する戦争未亡人の助け合いや奉仕活動を経験して、修道女になったと推測できます。子どもがいれば生活のために働くでしょうから、子どもはおらず当然子育ての経験もありません。こどもに対する接し方が分からない人なのです。
 また大学などで教育学を学んだり、教育実習をした経験がない可能性があります。たとえば「ボールペンはよくない」が口癖ですが、素早くノートやメモを取る経験がないことを暗示しています。万年筆は聖書などの丁寧な写し書きには向いていますが、当時はまだカートリッジ式が普及していないのですぐにインク切れし、授業のノートには向いていません。

 また「人手不足だから・・・」と女性教師に嫌味をいいながら、自ら授業をすることもなく、「爪を切れ」とか子細なことに拘るばかりで、教育理念や教育方針あるいは実際の生徒指導法などに関して何も語っていません。日本の校長のように教員の経験を積んで昇任試験に合格して校長になった人ではないと推測できます。
(フリン司祭はカラスが鳴いている場面で、女性教師に自分の教育理念は愛だと語っています。)

 一方、フリン司祭や女性教師はおそらくカトリック系の大学で学んで、日本の仕組みでいえば教員免許を持っている人たちでしょう。
 映画では女性教師の授業風景のシーンがありますが、中学校の社会科と数学を教えて、音楽の授業ではオルガン伴奏もしている。どうも体育以外の全教科を1人で担当しているようで、並みの優秀さではできないことです。たぶん女性教師は教育指導に関しては校長は相談相手にならないと感じているのです。
 校長のほうこそ「人手不足だから校長になれた」のかもしれません。



 以上で「第1部 劇の背景」が終わります。
 当時のアメリカ社会は、今の日本社会とかなり背景や制度が違います。ましてやカトリックの学校の話ですので、正直いえば私も分からないことばかりです。皆さんの理解の助けになれば幸いです。

 ここまででもかなり私の推測の箇所があります。ですので「自分勝手な推論はもううんざり」という方は、次の「第2部 仮説」は読まないほうがよいと思います。

 『第2部 仮説‐「たぶん、そうだったんじゃないか劇場」』はここをクリック

第2部 目次

仮説1:校長が聞いていたラジオニュース − I have a dream.
仮説2:校長がいだいた複数の疑い    − I have douts.

仮説3:フリン司祭はなぜ昇進したのか(フリン司祭とは何者か)
仮説4:校長が泣き崩れる理由  − I have douts. I have such doubts.


(注1)
 校長は、アフリカ系アメリカ人の少年ドナルド・ミラーに直接会った形跡がありません。ドナルドに関する情報は、女性教師かフリン司祭から得ているだけです。映画では校長とドナルドが一緒に映っているシーンすらないのです。

 校長が女性教師に、次のようなことを言います。
「この教区はアイルランド系かイタリア系の家族が多く住んでいるので、誰かがそのうちドナルド・ミラーをなぐるでしょう。そうしたら彼らを私のところまで連れてきなさい。」
変だと思いませんか。普通の教師であれば生徒が殴られたと聞けば、とりあえず現場に駆けつけるでしょう。極端に解釈すれば「ドナルドはそのうちリンチにあうでしょうけど、それまでは何もしませんよ、未然に防ぐことなんて無駄ですから。」となります。反対にフリン司祭はそれを未然に防ごうとしていたわけです。

 その他の例をあげると、おしゃれが好きな女子生徒について校長は「なんとか6月(卒業)まで無傷でいてくれたら」といいます。極端に解釈すれば「卒業した後の女子生徒のことは学校とは関係ないから、卒業までは面倒を起こさないでほしい(妊娠しないでほしい)」ということです。

 言い過ぎかもしれませんが、まともな教育者が話す内容でしょうか? 
(もしこれがまともだというのなら、それは事なかれ主義で保身に走る日本の教育関係者のコメントに慣れてしまい、常識がマヒしているからでしょう。)

 女性教師とフリン司祭からは生徒への愛情を感じます。一方校長は生徒に罰を与えるだけで、教育も愛情も与えてはいません。校長は教育者というよりも管理者です。この物語は管理者と教育者の対立と考えてもいいはずです。
  管理者:校長
  教育者:フリン神父、女性教師

 さらにいえば、次の分類も可能です。
  教育者として生徒に愛情を持てない人:校長
  教育者として生徒に愛情を持つ人  :フリン司祭、女性教師

 この物語を簡潔に要約すると、次のようになると思います。
  教育者として生徒に愛情を持てない人(校長)が
  教育者として生徒に愛情を持つ人(フリン司祭)に対して、
  疑い(doubt)を持った。
  その結果、疑いは「正しかった」あるいは「間違っていた」ことがわかった。

 この劇ではその疑いは[正しかった」のか「間違っていた」のか判断が難しい。2つの疑問が残るからです。
  1.フリン司祭はなぜ昇進したのか
  2.なぜ校長はラストシーンで突然泣き崩れるのか

 作者が意図的に説明を省いているので、観客は仮説を立てて検証することで、実際は何がどういう意図で書かれたのかを推測するしかない。ここにこの劇の面白さ、奥深さを感じます。


(注2)
 劇ではウィリアム・ロンドンは登場しませんが、映画では実際に登場します。映画ではウィリアムは狂言回しの役割を担っていて、それで作者は彼に注目してほしいとヒントをくれたのだと思います。

 映画に登場するウィリアムは、白人の少しませた感じの少年で、思春期にありがちな本当はいい子なのに反抗期で不良ぶっている感じです。校長は「ウィリアム・ロンドンは悪賢く油断できない」と言っています。

(1)校長室での会話

 主なウィリアムの登場シーンは3か所です。
 1つ目は映画の最初のほうで、通学途中で煙草を吸い、学内に入ってくるシーンです。
フリン司祭がウィリアムの服装の乱れを正そうと近づき、ウィリアムの二の腕をつかみます。ウィリアムはたばこの臭いに気づかれるのを嫌って、フリン司祭の腕を振り払って逃げます。このはずみで女性教師とぶつかりそうになります。すると想像ですがnウィリアムはどうせ怒られるのだからこの際だと思い、近くにいた女性教師の二の腕を触ります。本当は胸を触りたかったのですが、すんでのところでそれは思いとどまりました。
 ここで校長は「ウィリアム・ロンドン! 校長室に来なさい。」と怒鳴りつけます。しぶしぶウィリアムは校長室に行くというシーンです。
(この後の校長室での2人の会話のシーンはないのですが、後で仮説として推測します。)

 2つ目はその直後で、自宅謹慎かなにかの罰を受けてウィリアムが帰宅する途中の路上です。ウィリアムは歩きながら食べていたパンを鞄にしまい、その代わりにタバコを取り出して吸いはじめ、一瞬ニヤリとします。

 3つ目は映画の後半で、フリン司祭が教会での説教の後に転勤になる旨のあいさつをしていたときのシーンです。教会の席で聴いていたウィリアムは、密かに一瞬ニヤリとします。
おそらく彼にとってフリン司祭は目の上のたんこぶのような存在で、司祭の転勤を聞いて「しめしめ、これでいたずらがしやすくなったぞ」と思ったのではないでしょうか。


 校長室で校長とウィリアムはどんな会話があったのか。校長室での2人のやり取りを次に書いてみました。
【次のようなドラマを見た記憶があります】

(校長に呼ばれて、ウィリアム・ロンドンが校長室に入る。)

校  長 : ウィリアム、・・・たばこの臭いがする。全く手が焼ける子ですね!
ウィリアム: ・・・
校  長 : ウィリアム、シスターにふれてはならないという規則を知っていますね?
ウィリアム: ・・・はい
校  長 : それどころかあなたはシスターの胸に触ろうとしたでしょう ?
ウィリアム: ・・・フリン司祭と同じことをしたまでですよ。
校  長 : 何ですって?
ウィリアム: (校長が動揺したのをみて愉快になって、つい出まかせを言ってしまう)
フリン司祭は男の子の胸を触るのが好きだって噂になってますよ。さっきもフリン司祭から胸を触られそうになったので彼の手をふり払ったところです。特に黒人の少年の胸を触るのが好きだっていう噂ですよ、フリン司祭は。
校  長 : いいかげんにしなさい、ウィリアム! 分かりました。あなたは全く反省していないようです。
ウィリアム: (突然鼻を押さえて)先生、鼻血がでました。(ハンカチを見せる)
校  長 : (ハンカチについた血を見て)ご両親には電話で連絡しておきます。さあ、寄り道しないですぐに帰りなさい。


 もちろん鼻血も嘘です。ウィリアムの適当につくった噂話が校長の疑い(doubt)に火をつけたのです。校長は「ウィリアム・ロンドンは悪賢く油断できない」と言っておきながら、結局ウィリアムの噂話に影響されます。
 しかし不良少年が証人だといってフリン司祭を告発しても、教会関係者なら誰も信じません。それで校長の行動がエスカレートしてしまった、という仮説です。


(2)告白

 実は映画ではもう1か所、ウィリアム・ロンドンが登場します。授業中の女性教師が板書に気を取られている隙に、ある女子生徒のそばに言って何やら話しかけるシーンです。
 このシーンはかなり前のシーンを受けています。フリン司祭が男子生徒だけの授業で「好きな女の子ができたら、男から告白するのが礼儀だ。振られても別の女の子を見つければいいんだ。でも、すべての女の子に振られたらどうする? そのときは司祭になればいい。」と言うシーンがあります。

 ウィリアム・ロンドンは、それを大胆不敵にも授業中に実行したわけです。なお告白された女子生徒は、校長が「なんとか6月(卒業)まで、無傷でいてくれたら」と評してした、おしゃれ好きなおませな少女です。

 しかし重要なことは、好きな子に告白したのはウィリアム・ロンドンだけなのか、ということです。他にも告白した少年がいたという仮説も成り立つでしょう。それはアフリカ系アメリカ人の少年ドナルド・ミラーです。
【次のようなドラマを見た記憶があります】

 ドナルドの隣の席の少年ジミーは温厚で勉強もでき、ドナルドと一緒に礼拝の準備もしていました。ドナルドはそのジミーを好きになって告白したのでしょう。しかしジミーは動転して拒絶し、とっさに近くにあった礼拝用のワインをドナルドに浴びせてしまいました。
 フリン司祭は物音に気づいて駆けつけます。ドナルドはジミーをかばって「自分がワインを飲んだのだ」と言います。それから「司祭になる」と言い泣き出しそうになります。
 フリン司祭は自分の予備のシャツをドナルドに与えて、ワインで汚れたシャツと交換させます。ワインで汚れたシャツをドナルドのロッカーに入れるのを女性教師は目撃します。

 一方、ジミーも後悔します。ワインの件は自分のせいなので、本来なら礼拝の侍者からはずされる罰を受けるのは自分であるはずです。ところがドナルドが嘘をついて自分をかばったからです。ジミーは真実を告白して自分も罰を受けようと思うのですが、校長や女性教師に言い出すことができず、イライラが溜まって女性教師に突然反抗し怒られて泣き出します。

(あくまで映画のシーンの話です。劇では上記の場面は全て存在しません。)


(注3)
 主任司祭(pastor)は"pastor of Church"とも言うようです。校長は"pastor of School"。なお"pastor"には鳥のムクドリの意味もあります。

 映画ではたびたび”monsignor”(高位の聖職者)という言葉が使われています。
たとえば、主任司祭とフリン司祭の会話では、自分たちより上の地位の司教を指しています。校長と修道女との会話では、修道院長(この映画では主任司祭が兼任)のことです。
 いずれにせよ、”monsignor”は主任司祭以上の人を指すようです。

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